わたしにとっての創造共育 わたしにとっての創造共育

『子どもとは 自分とは』広島安佐プレイルーム支部長 中木秀成

今の私がこの仕事についているのは「子どもの気持ちが知りたい」という思いが発端です。
和久先生の童具に出会ったのは、小学3年生の頃です。母が絵本を販売する仕事をしていて、絵本のセットの付録についていたのが和久先生の積木だったのです。
今でもある<ツートンブロック>です。説明書に書かれていた図の通りに白と黒の2色の積木を箱に入れるのですが、これにもう夢中になって遊んだ記憶があります。おやつやごはんを食べるのを忘れるぐらい遊んだことを今でもはっきりと覚えています。その頃は、何より「大人ができなかった図を自分ならできた」という自信で「自分は天才なんだ」と勘違いしていた時期でもありました。
中学生の時、弟が保育園に行っていたので、部活の帰りは弟のお迎えに行ってから一緒に帰りました。
帰った後は弟と一緒に<くむくむ>で遊ぶのが日課になっていて、弟からの「〇〇つくって」という無理難題なリクエストに答えて弟が乗れる三輪車をつくったこともありました。
この頃から母が和久先生の講演会をよく開催していて、私はいつもビデオ係で和久先生の話を聞いていました。「子どもの話ばかりで自分には関係ないじゃん!」と母の手伝いを断れない"ささやかな思春期の反抗"をしていました。
私が幼児教育に目覚めたのは、和久先生の講演会で託児の手伝いをしていた時です。
子どもと遊ぶことは得意だと思っていたので、嫌われることはないのだろうとタカをくくっていたのですが、仲良く遊んでいた子の帰り際、お母さんに子どもを渡す時、「じゃあね!」と手を振ったら、その子は私のその手をつかみ、噛んだのです。まったく痛くはなかったのですが、「なんで噛んだのだろう。なにか嫌なことがあったのか?」といろいろ考えて、「子どもの気持ちが知りたい」と思うようになったのがきっかけで、幼児教育の短大に入りました。
その後6年間、幼稚園や保育園の先生をして子ども達と日常を過ごし、勤めていた保育園の方針・教育に疑問を持つようになっていました。なぜ疑問を持つようになってきたのかは、和久先生の講演会のビデオ係だった経験から、子どもの姿や行動が昔聞いていた和久先生の話していた通りだったからです。そのことに気づいた時には保育園を辞め、東京に往き、童具館に勤めていました。
童具館ではアトリエがあって、和久先生が話していた通りの子どもの姿がそこにありました。アトリエでは夢中になってつくっている姿の子どもがたくさんいて、顔がとてもいいのです。集中しているときの子どもの顔が大好きになり、今でもその顔を見たくて活動をどう持っていくのかいつも考えています。
そしてやっと、自分でアトリエを持つことができ、10年間、『わくわく創造アトリエ』を運営してきました。
子どもが集中していると「今、どんな気持ちなんだろう」と思うことがよくあります。
積木遊びをしている時、子どもが「先生、見て!これが玄関で、そこがキッチンで……階段になって…」としゃべりながらつくっていく子がいますが、子どもはそこにいるような気持ちなのだなと感じています。
小学3年生の子のことです。つくっている最中は静かに集中していて目立たないタイプですが、できた作品は大人でも思いつかないようなアイデアが満載されていて、いつも驚かされ、やっぱり子どもは天才なんだと思います。思わず「〇〇くん、天才だね」と言うといつも照れた顔を見せてくれます。この気持ちは体験済みだから、自分にもわかります。
たくさんの子とふれあっていても、正直、まだ子どもの気持ちがわかりません。ほんの少しでもわかっていたらうれしいのですが、子ども一人ひとりまったく違うので、私の目に映る子どもとだけでも寄り添いながら共に歩んでいきたいと思っています。
「子どもの気持ちが知りたい」という願いは、私の永遠のテーマとなりそうです。
それは、もっと自分を知りたい、人間を知りたいと思うことのような気もします。

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